才能と形式

つくづく自分が何に混乱しているのか、何を把握していているのか、第三者に説明する記事を構成するのは難しい。自分一人だけの手帳だと暗黙の了解で済むことを第三者に記事として読めるようにするのは、純粋にプログラミングとは違う構成能力が必要になる。こんなことに時間をかけてもいいのだろうかという気持ちにさえなる(ならやめろっ!!!!)。面倒臭いことこの上ない。単純な勉強とは使う脳味噌や時間や労力の使い方が違ってくる。純粋なプログラミングの勉強とは違う構成能力が必要になり、自分が表現したいことが自分でも掴めない。知識を知って使えることと、それを記事に纏めていくのは全然違う能力だということを痛感する。そんなことをせずにガンガン勉強すればいいじゃないかとも思うのだけど、一度乗りかかった船なのに、しかも漕ぎ出したのは自分なのに、途中で辞めるとおそらく自分を攻める。この一点においてのみでさえ、自分を攻め続ける材料にしてしてしまう、きっと。ならば漕ぐしかない。記事にしたいと思っているのだけど、どう記事にしていいのかは書いてみるまでは本当に掴めないものだと思う。書き始めて、これではない、こうでもないと、イライラしながらも衝動を保っている時だけが、自分が記事にしようと思った記事を完成させる資格があるのだろう。逆にQiitaの記事を書いている人たちは素直に尊敬する。こんな面倒臭いことをやってくれたのだと素直に尊敬する。このBlogにも何回か書いたことだけど、表現形式を自由に操れなければ、記事の内容とは衝動とは違うところで、また表現できない。それは内容を理解しているとはまた違うことで、形式を使いこなす知識がなければ、その才能もまた生きないのだろう。確かに、表現とは才能の比重が大きい分野なのだろうが、形式と才能は切っても切り離せない、一体化したものなのだろうと強く感じる。形式を知らなければ、表現も出来ない。どう構成していいのか、逆算的に形式を組み立てることさえ出来ない。内容的な構成ではなく、形式的な全体像からくる構成能力も問われるのだろう。しかし、こんなことに時間使っていいのかと逡巡は常にある。しかし、自分はこの作業を続ける度に常に自分に言い聞かす。復習をして、それは記事を書かない分早く、それも早く終わるだろう。技術ももっと増えるだろう。しかし、人に紹介するような記事が一個もない状態でそれで自分は勉強したと言えるのだろうか。それこそ、口だけのような気がしていて、特に最近。どんなにめんど臭いくても、たとえ、非効率的で何かを棒に振ったとしても、そこから自分は逃げることは出来ないのではないかと思う。一度、取り憑かれてしまったのなら仕方ない。遠回りかもしれないが、やるしかないのだろう。