結果を出すべき人ではない人

本当にかっこいいのは、結果をただ出すだけでなくて、結果を出すはずの人が、当然のように、出すべきだった結果を出した時。自分はそんな人間だろうか。結果を出すべき人であると言えるだろうか。そんな晴れがましい瞬間が自分にも訪れるのだろうか。結果を出すべきではない人間と云うのは失礼だけど、ある程度結果を出しているそんな人にもあったことがある。例外なく、その結果ゆえ、周りを腐らせる人だったように思う。結果を出していても、周りを腐らせるような人は、失礼だがやはり結果を出すべき人ではなかったのだろうと思う。

方向転換の予感(職業的な憧れとかでは一切なく)

自分はデザイナーという職業にも、エンジニアという職業にも憧れはないが、デザイン、エンジニアリング、ART、芸術などには憧れがある。嫌いではないし、好きだし、飽きないし、素直に脳が惹かれるものがあるし、好きだ。職業そのものには憧れはないが、何故それらが好きかというと、結局、それらを把握しようとする時の脳の興奮状態が苦痛ではないというか、それらを把握しようとする時に使う脳の状態が好きだからだ。映画でも時系列が前後するものが好きだし、構造的な構成を強く意識させるものが好きだし、叙述こそが構造を形作るミステリー小説も好きだし(それ以外の読書も好きだが)、設定自体が世界観構造を強く意識させ、同じく叙述がそのまま世界観把握の経過になっているようなSF小説も好きだ。自分は結局のところ、デザインを把握しようとする時の思考過程、エンジニアリングを理解する時の思考過程が好きなんだと思う。そういうものにも興味があるって話だ。だから、デザインそのものより、デザイン思考や、創作論、設計哲学とかが好きなんだと思う。そのものから派生していく思考部分というか、その水面下で流れている思考過程というか、設計思想というか。配置学というか、だからUIも好き何だと思う。映像そのものよりも、映像の構成や、その順番だったり。では、何故、好きなのに、今までそんなに本を読み漁ったりしてないかというと、別に口だけで好きだと言っているわけじゃなく、好きなことは確実にわかっているけど、他にも自分の大切な価値観があったからだし、それらが好きな原因の一つ(脳に特有の負荷がかかる)が故に、腰が重かったというか、起想するだけでも麻痺する感覚があったからだ。何でそもそもこんなことを書こうと思ったかというと、それらに関する本をしっかりと自分なりに読み込む時期が近づいている気配を感じるからだ。今迄なら、それを読んだとしても自分の中で言語化しようとは思わなかったが、それを積極的にしたい、するべきだという時期にさしかかっているような気がしているからだ。今後の自分の血肉にでもしてみようと思う時期がきているからだ。色々吐き出したいことあるけど、とりあえず喫茶店が閉まりそうなので、こんなことも考えたことは記録しておく!!

手を動かすこと

早く完成させてしまいたい。早く整理し切りたい。早く実装し切りたい。早く仮説や思考を間違っていないか検証したい。検証して確かめたい。早く整理して、情報を体系化立てたい。早く形をはっきりさせたい。早く思考を現実に当てはめて確かめたい。その知識や仮説が正しいものか、正しい知識として扱っていいのものなのか確かめたい。タスクが複数同時にある時に、早く全て済まして、脳の落ち着きを取り戻したい。こういう時に脳が興奮してくる。自分は把握癖が強い人間だから、早く把握してしまいたい。今の知識を早く定位置に格納して、新しい知識の位置として再構成して、既存の知識の定位置を再更新したい、そういう時に、やはり、脳が興奮してくる。

プログラミングを学習して、手を動かすっていうのはそういう人間の把握癖と関係してくるのかもしれないと思う時がある。これは、「知識と知識」の位置を再定義しようとする脳の把握癖の、「行為と知識」版で、手を動かすことにより、その行為の位置や意味を把握したくなるのだろうと思う。その行為に引きづられて脳が、行為の意味を把握しようとして脳が興奮してくるのだろうと思う。やる気がなくてもまず、手を動かすというのはそうこうことかもしれない。行為的に半歩前にでる。秩序出来ない行為による情報が入力される、それを脳が把握しようとする。だから脳みそが興奮してくるのだろう。

プログラミング学習においては、そのアウトプットの形式と実態が、通常時と反転する。

プログラミングを行うまでは、「書く」という行為は、インプットありきのその蓄積からの行為だとの先入観があったが、プログラミングを初めて以降、その価値観が反転することが度々ある。今までの価値観では、「読む」「書く」が切り離されており、「読む」と「書く」という行為は分離されているはずという先入観があった。「書く」という行為を成立させているのは、「読む」という行為ありきの行為だとの価値観で生きてきた。「書く」というのはアウトプットで、それはインプットとは同時に成立しないものだとの価値観で生きてきた。しかし、それは少し違っていたかもしれないと思うようになった。何かがあるから書けるのでなく、書くことで何かをインプットすることもあるのかもしれないと感じるようになった。

「書く」という行為は、PCを叩く行為でもあるから、ついついアウトプットであると条件反射的に思ってしまうが、「書く」ことで、インプットへ契機が始まることがあるのかもしれない。プログラミングにおいては、「書く」という、如何にもアウトプットした形の「行為」があることで、それがインプットの契機になると、なかなか実感を伴い理解できないのかもしれない。

だから、「手を動かさないと分からない」っていうのに反発的感情を抱いてしまう。まず、わかってないと手を動かせないだろうって思ってしまう。だから技術書も手を動かさずに読んでまずは勉強しようとしてしまう。これも、「書く」という行為が如何にも、インプットしてからの行為、との先入観に引きづられているからだろうと思う。自分もまだその一人だが。

まず、理解してから書きたいと思うし、そうでないと気持ちが悪い。脳が今自分が何をやっているのか把握できなくて落ち着かなない。でも、だからいいんだろう。自分の既知の半歩前に無理やり連れ出されることで、脳が行為の意味を把握しようと動いてくれる。

だから、プログラミング学習時においては、如何にも「アウトプット」然とした行為が、反転して「インプット」への契機を担っているんだろうと思う。全ての事柄がそうなのかもしれないが。

思い付く

自分の半歩前にハミ出さないといけない。ここ数日モチベーションががっくりと落ちていて、完全に回復した訳ではないけど、今日の脳味噌は興奮している。初歩的な内容の部分を書籍で一から初めているんだけど、本当に細々した原理的な知識や知識は全然は会う出来ていないことを実感。Raiis自体が、様々な機能を持ったフレームワークということもあるだろうが、知識の集合体で原理的な部分は理解しきれなくても動くようになっている。だから基礎的な部分の復習はかったるかったが、これが少し難しげな本で勉強すると見事に分からない。最初はこういう状況は嫌悪感を挫折感を自分に抱かせると感じていたけど全然そんなことない。寧ろ逆だった。自分はこんなにもモノを原理的なことを理解できていないんだと思って、まだまだ勉強することがあると思って嬉しかった。

当然、手を動かしながら勉強して行くわけだけど、少し不安なのは、基本的な知識で、かつ自分が知らないことを知れるのはいいけど、知識と機能の実装の勉強は違うと何度も実感したことがあり、機能の実装には知識とは少し違う、考え方の筋道というのがいる。知る力、とは違う、思い付く力がいる。

自分を興奮させるサイト。

久々に凄いサイトに出会った。こんなサイトは、ここ数年では2個目。どちらのサイトでも自分の脳の機能のある機能が働いた。情報量が多い。自分の好きな脳の使い方を同じようにしているサイトだと思った。自分にはアウトプット出来る何かはないけど、今後の生き方の参考になるようなサイトだった。自分と同じような脳の思考過程が似ている人のサイトだろう。把握癖を要求されるようなサイト。二個目だった。

SNSが流行り始めた時、20代半ばを過ぎていた

自分の能力と可塑性を持て余しているような気がする。もっと厳しい環境に身を置いて圧倒的かつ爆発的な成長をすべきではないのか。何かに身を晒すような、自分自身で自分を把握出来なくなるような経験をするべきではないのか。歳をとった今、そんな環境に無自覚だったとしても身をおけた人間が羨ましく思う時がある。若い頃は馬鹿にしていたし、可能性を消すことだと思っていたけど、何かに所属して特有の社会経験を積むことは貴重なことであり、大切なことだったなと思う。

しかし、今のように個人がアウトプットしようと思えば、発信しようと思えば何をやっていたとしても発信出来るような、誰かに、何かに気づいてもらえるような時代ではなかった。自分の中の承認欲求を満たす為にはそれは捨てる選択肢だったと思う。

これは個人的な経験ではなく、同世代の何かしらの承認欲求、誇大妄想的な肥大願望を持て余してる人間には共通する感覚ではないかと思う。ありとあらゆる仕事を横断的にしてみたい、己を焦がすように様々な仕事をしたいと思ってしまう人間ほど、本当に何かに所属することは、それ(何処かに所属して、その会社の専門的な事業に携わること)を諦め得なければならない、それを捨てなければ、ありとあらゆる仕事は出来ないと思い込んでいた時代だったと思う。本当にそうだったと思う。

だから自分と同世代の人間で、何かしらの承認欲求を満たそうと思う人間にとり、何かに所属しない、つまり、各々にとり目指すジャンルは違えど、何者かになろうとする人間には、何かしか表現を目指すしかなかったように思う。本当にそう思う。

つまり、発信側というのはごく一部に限られていて、そこに乗っかっていくような生き方目指す努力の仕方をしていたように思う。けど、今は違う。本当に違うと思う。どんな生き方をしようと、同時中継的に自分のことを発信する機具が山のようにある。

 何かに所属していても、自分の承認欲求を充しながら働くことは出来るし、それこそが横断的に仕事を可能にさせる生き方のモデルにもなっている。

 これは自分が19.20の時には思っても見なかった生き方だし、その生き方に嫌悪感を示しつつも、完全に乗り遅れているし、自分が乗りたくもないと思っている生き方が、一部ではあたり前のようなことになっていると思う。

 SNSの功罪など散々いろんな場所で語られているから今更な感じはあるだろうが、SNSが流行り始めた時には20台の半ばで、職業選択の第一段階時にそのような価値観を持つことができなかった最後の世代で、尚且つ、その時はまだ若かった自分たちの世代は、1番の煽りを食らった世代ではないかと思う。すでに世の中に出ている人たちには、その基盤を逆に上手に利用している感じがあった。

 その時期に、その選択肢は存在していないが、まだ若く基盤が整っていない時代に大人になったのが自分たちの世代だと思う。うまく利用もできる基盤もなかったし、慣れてもなかったし、これから訪れる仕組みの変化からは取り残される宿命にあった世代。本当にそう思う。

発信することは何処かに所属するという選択肢を捨てなくてはいけない世代だったと思う。そして一度どんな願望を切り捨てて何処かに所属して、その事業について働き特有の生き方をした人間が、のちに誰もが発信できる時代になった時に、固有の経験を話す資格を所有できた。こんな時代がくるとは本当に思いもしなかった。

自分がこんなことを弱音がましく話すのは、人が能力的に成長するのは、意欲か外圧か、環境か資質か、本人の意思なのか、何かの経験に無自覚的だが従事できた環境による蓄積なのか分からなくなってきているからだ。

本当に人が経験を積むとか、頭のキレをよくするとか、脳の可塑性を乗り越えて自分を破壊していくのに、環境の力ってどれくらい違うんだろうと思うことが多いからだ。自分自身で制限を作るのは本当に難しい。何をしても死ぬわけではないし、生ぬるく生きようと思えば生きられてしまう時代に、何かの制限的な生き方って何処かに所属して、外圧業務による制限的な力って本当に貴重だと思うからだ。

 無名の英雄達がいて、その人間たちは自分が子供の頃には決して見えない存在だったけど、そういう人たちは確かに存在していて、偶然その会社に入らなければ存在さえ知らずにいた人たちが昔もいっぱいたんだろう。でも、自分には見えなかった。知る機会もなかった。今は違う。無名の英雄たちが、SNSにより、無名ではなくなる現象がずっとおきている。自分の職業選択時には知ることの出来なかった先輩たちが沢山いる。

その人達は、発信することのない仕事をどんな価値観で選んできた人たちなのだろう。

誰しもが簡単な発信要求ですら満たせなかった時代で、どんなに苛烈に自己肥大欲求をぶつけてきただろうか。昔の人たちの仕事ぶりが苛烈なのはそんな事情もあるのではないか。何も知らないけど。

仕事を初めて勉強になかなか身が入らず、もう一度無職に戻り自分を追い込むべきではないかとの迷いがあって、制限の重要性も考えつつ、何かを捨ててそれに従事することでしか蓄積されない経験値の差のリスクを考えながら..ボーとしている。

 

自分はどうしたいのか

本当は自分はどうしたいんだ。本当は自分が何がしたいんだ。そもそ自分は何の為に勉強していたんだろう。自分は何かを知り尽くしたいと言う知的好奇心は持っているのだけども、それは持続しないし、すぐ実行できる人間でもないし、これは何の遠慮だ。遠慮するな。自分はどんな人間だ。自分は強人間ではないし、自分は強くなりたい、強くなりたい。自分の力で何かお金を稼げる人間になりたいと急にさっき思い始めた。ここ数日の意識の流れは何だったろう。あるいは、取り敢えずのカリキュラムの終了予定直前の自分の気持ちはどんなものだったろう。こんな気持になったことがあるか。自分はどんな人間になりたいと考えているのか。どんな自分でいたいと考えているんだろうか。自分はここ1週間ほどどんな気持ちで過ごしてきただろう。自分はどんな人間になりたいのか。自分はどんな人間になりたいのか。ここ数日、どんな気持ちで過ごしてきたんだろう。自分はここ数日、ついさっきまで、最終課題をやろうかやらまいか、とか、自分は就活したのかどうかとか、最終課題をやらないのは逃げなんじゃないだろうかとか、何かを勉強するときに、同時にアウトプットしてQiita等の記事にまとめて、自分が中かを勉強した過程を紹介できるようにしたいと考えていたり、最終課題より、それを200本ほどあげた方が魅力的に見えるのではないかと考えたり、最終課題を終えたとしても人としてそれは魅力的に見えるのだろうかと考えたり、最終課題を終えたとしても、それは何も知らない人がみたらただ学校のカリキュラムを終えたに過ぎないのではないかと考えたり、それなら、自分を紹介する術として自分を紹介できる何かがあったほうがいいのではないかと考えたり、本当にぐるぐるいろんなことを考えてしまって、その都度、いろんな人間が自分をバカにする妄想が代わる代わる浮かび、それらの人間に対して妄想を使うことがいっぱいあった。また、上手くいった時に、こうだから自分は上手く行ったと話す妄想もして、完全に思考の自動連想に気を取られ、完全に方向性を失っていた。自分は何かをまとめないといけないだとか、そのほうが自分にとって力がつくだとか、本当に気の迷いが多くて、本当に心ここにあらずだった。自分はどうすべきなんろうと、母親に手紙を書こうともしたし、妹の顔も思い浮かんだ。

4月に入ってから、いやAWSカリキュラムが終わってから本当に何かに取り憑かれたように勉強する自分を失っていた。そうだ。自分はどうなりたいのか、どうなりたいのかがかけていた。カリキュラムを始めるまでにはぼんやりと考えていたこと、そしてカリキュラムの途中では意識しなくても済んだことに自分は向き合わなくてはいけない。自分は何の為に勉強するのか、転職する為か、転職なんか絶対嫌だ。転職するにしても、自分の技術を生かして自分のスキルでお金を稼ぐような人間になりたい。会社の仕事をするのは本当に嫌だ。例えば、本当に自分が心からやりたい仕事が会社にあったとして、自分はその会社に就職するだろうか、自分は絶対に就職したいくない。

 

自分が就職したいと思うのはどんな時だろうか。自分が所属したい思うような会社ってどんな会社だろうか。自分の企画を通してそれでその会社を通して働くなら素敵だとは思うけど、そんな簡単に見つからないと思うし、やりたいことがあるなら自分でやればいい。

では、自分は何のために勉強しているのか。あるいは、何のために勉強するのだろうと、目標を設定できるだろうか。