人生

◯書きたいことと書く技術に関して。

技術というのは、文体とか単語とか、言いたいことを書くためにそれを正確に表現する技術のことでもなくて、単純にある形式に則ったh表現記法のこと。Qiitaで言う所の、マークダウン記法然り、このBlogで言う所の、文字の大きさを変える方法や、書くときのフォントの大きさを変えるなど行った、形式的な表現方法のこと。本当に書きたい事(それをフォントの大きさやデザインも含めた表現方法)を書く為に、その前に自在に操れないというのが、インターネットを通じて何かを、道具を用いて何かを表現させることの枷になっているような気がする。何かを書きたい、何かを表現したいと思う人間にとり、全てを、表現する全てを自分の支配下におき、自在に管理、把握しておきたいというのは、根源的な欲求であると思うし、それに関しては自分もまたそうなのだが、その前に、技術を、形式的技術を把握出来ず、自在にコントロール出来ないことからくる苛立ちが、インターネットの上に言葉を綴る障害になっている様な気がしてならない。機会を操る迄に時間がかかる、表現する迄に時間が掛かる。それまでの間に初期初期衝動が消えてしまうので、書こうとすればする程、もどかしい思いで、自在に操れないことへの苛立ちと憧れ、綯交ぜになったまま、脳だけは興奮して、結局何も書けず、何も構築出来ず、結局そのまま、誰に見られることのないアウトプットに終始する。例えば、自分が勉強した内容、過程、日々の感情を手帳や、B6(京大式ノート方眼桝)に記録はするが、それは誰かに見られることはない。

 

ある形式に則った表現を試みる度に、いつも感じることだが、また、新しいUIに出会う度、いつも感じることだが、そのサービス、UIにおいて、何が出来るのか把握したくなる。それは、過去の同様のサービスの経験を引きづり、(つまり、どのGAMEにもSAVE機能がある様に、このGAMEでSAVE機能を実行するにはどうすればいいのだろうかと行った様な)既知の行為から発する行為への欲求の発露を、新しいUIにおいても行おうとすることで(また新しいUIに置いても形は変われど既存の機能をはみ出す余程革新的な考え方を要求される機能行為は存在しない)、自身がこのサービスUIに置いて、どんなことが出来るのか把握しようとすることで、UIの全体像を把握し、自分が行っていることの全体像を把握し、現在の自分の行為の立ち位置を把握しようとする。

 

自分が、WEBの構築物に惹かれていたのは、その機能を把握する過程で脳が興奮させられたからで、機能を把握して何とかその機能を自在に操ってみたいと思い把握しようとする瞬間に流れる脳の興奮状態が好きだったからだ。

だから、プログラミングを始めとして、やがてはインフラエンジニアが扱うような技術を自在に操ってみたい。だが、しかし、それは知的好奇心からくる自分の欲求の発露であり、自分の本来ありたい姿からの欲求の発露ではない。やはり自分には何か違うところに自分の本当の意識の流れがあるわけで、それはエンジニアリングへの卓越とはまた違ったところに自分の希求しているす姿がある。自分は本来、どうすべきなのか、自分は本来、どう生きるべきなのかの答えに、エンジニアリングへの卓越はない。やがて超絶したエンジニアリングの知識を身につける予定だが、時間は掛かるだろうし(別に焦ってもいない)、ただ趣味程度にお金が山ほど稼げればいいだけの話で、本来の自分の魂からくる根源的な欲求の発露や、頭脳の興奮はそこにはないと考えている。