手を動かすこと

早く完成させてしまいたい。早く整理し切りたい。早く実装し切りたい。早く仮説や思考を間違っていないか検証したい。検証して確かめたい。早く整理して、情報を体系化立てたい。早く形をはっきりさせたい。早く思考を現実に当てはめて確かめたい。その知識や仮説が正しいものか、正しい知識として扱っていいのものなのか確かめたい。タスクが複数同時にある時に、早く全て済まして、脳の落ち着きを取り戻したい。こういう時に脳が興奮してくる。自分は把握癖が強い人間だから、早く把握してしまいたい。今の知識を早く定位置に格納して、新しい知識の位置として再構成して、既存の知識の定位置を再更新したい、そういう時に、やはり、脳が興奮してくる。

プログラミングを学習して、手を動かすっていうのはそういう人間の把握癖と関係してくるのかもしれないと思う時がある。これは、「知識と知識」の位置を再定義しようとする脳の把握癖の、「行為と知識」版で、手を動かすことにより、その行為の位置や意味を把握したくなるのだろうと思う。その行為に引きづられて脳が、行為の意味を把握しようとして脳が興奮してくるのだろうと思う。やる気がなくてもまず、手を動かすというのはそうこうことかもしれない。行為的に半歩前にでる。秩序出来ない行為による情報が入力される、それを脳が把握しようとする。だから脳みそが興奮してくるのだろう。

プログラミング学習においては、そのアウトプットの形式と実態が、通常時と反転する。

プログラミングを行うまでは、「書く」という行為は、インプットありきのその蓄積からの行為だとの先入観があったが、プログラミングを初めて以降、その価値観が反転することが度々ある。今までの価値観では、「読む」「書く」が切り離されており、「読む」と「書く」という行為は分離されているはずという先入観があった。「書く」という行為を成立させているのは、「読む」という行為ありきの行為だとの価値観で生きてきた。「書く」というのはアウトプットで、それはインプットとは同時に成立しないものだとの価値観で生きてきた。しかし、それは少し違っていたかもしれないと思うようになった。何かがあるから書けるのでなく、書くことで何かをインプットすることもあるのかもしれないと感じるようになった。

「書く」という行為は、PCを叩く行為でもあるから、ついついアウトプットであると条件反射的に思ってしまうが、「書く」ことで、インプットへ契機が始まることがあるのかもしれない。プログラミングにおいては、「書く」という、如何にもアウトプットした形の「行為」があることで、それがインプットの契機になると、なかなか実感を伴い理解できないのかもしれない。

だから、「手を動かさないと分からない」っていうのに反発的感情を抱いてしまう。まず、わかってないと手を動かせないだろうって思ってしまう。だから技術書も手を動かさずに読んでまずは勉強しようとしてしまう。これも、「書く」という行為が如何にも、インプットしてからの行為、との先入観に引きづられているからだろうと思う。自分もまだその一人だが。

まず、理解してから書きたいと思うし、そうでないと気持ちが悪い。脳が今自分が何をやっているのか把握できなくて落ち着かなない。でも、だからいいんだろう。自分の既知の半歩前に無理やり連れ出されることで、脳が行為の意味を把握しようと動いてくれる。

だから、プログラミング学習時においては、如何にも「アウトプット」然とした行為が、反転して「インプット」への契機を担っているんだろうと思う。全ての事柄がそうなのかもしれないが。