人の思惑は本当に存在しないのか

今日、朝方久々に自分がおっと思うようなツイッターに出会った。プログラミング学校に通い始めて、多分に2回目のことだったと思うけど、対象者は双方共にプログラミング未経験者で必死に勉強されている方だdったが、何故自分がかような迄に心惹かれたのどうかは知らないが、取り敢えずツイッター全部見てしまった。読んでしまった、動画サイトも見てしまった。やはり自分とは何かが違う人間だと思ったし、羨ましささえ感じてしまった。根本的に人を羨ましいと思いがちな人間だけど、心の琴線に触れるような人にはほとんど会わず、自分自身なんか誰の琴線にも触れたことはないけれど、事実ない。しかし、その人のツイッターには思わず自分を顧みさせる何かがあって、なんというか疾走感があった。その人の実力なぞ、大したことはないと思うが、プロに比べて、ただ人としてすごく魅力的な人なんだろうなとは感じた。とても疾走感があるツイートだった。猪突猛進を感じたし、猪突妄信的な人間に共通するものを感じたし、それは自分にはないものだと思った。自分はどうして同じ勉強しながらこうも慣れないものなのかと感じた。多分、人生のあらゆる瞬間において選んできた選択の意思決定の仕方が違うだろうし、自分の選択時における思考回路はどうしてこうも何も結果を出せない、冗帳なものばかりなのだろうと自分をまた嫌いになった。どうして自分はこうもなれないのだろうと思った。発信する情報も少ないが、この少なさは情報量が自分には少ないのではなく、基本的に人間が考える情報は、種類のさこそあり、量は同じ程度何か意識を働かせて生きているわけだから、思考の流れを活字化すれば同分量でてくるはずだ、それでも見せる形になるものとならないものがあるのは、自分を出すことをへの配慮というか、効果というか、人の思惑とか、自分がそれをしたことの効果とか考えてしまって、逡巡するからだと思う。

何かしら、アウトプットが多い人間、自分を出すことに抵抗がない人間ほど、過去、あるいは、現在自分が置かれている状況で、自分を平気で出してもそれを受け入れられると、拒絶されないと平気で思える人間で、それは自分自身の心の強さとの関係がなく、そういう状況を自ら感じ取り、自分を出すことを自分に許可している状態だと思う

例えば、自分が風俗やら、キャバクラやら、自分を出しても相手はそれを受け入れざる負えないという状況においては途端に饒舌になれる人間がいるが(過去自分にもそんな経験があるが)、また、仲の良い旧友、気のおけない間柄と同じ時間を共有した時のみ饒舌になれる瞬間があると思うし、自分が饒舌になっても自分が拒絶されるわけではないと、本能的に察知していると途端に饒舌になる時がある。

フォローワーが増えた途端に途端に饒舌になり始めるアカウントを何回も見てきたし、その度に人間ていうのはこういうものだ、実生活においてもそんな場所が自分は欲しいなどと何度も思ってきた、自分が拒絶されないと感じ取れる場所、自分がそのまま振舞っても拒絶されると感じ取れる場所が欲しいと何度も思ってきた。おそらく、自分を平気で出せる人間は、過去の経験で自分が自分のままに振舞っても自分は拒絶するタイプの人間だと自覚的になれている人間か、あるいは、それすらも自覚することなくそう思えれる人生を歩んできた人間だと思う。

自分のキャリアや履歴を簡単に言えしまう人間は、それが拒絶される、軽蔑されるタイプの何かではないと本能的に感じ取っている人間だし、それはステータスにどっぷり使っているとも言えるけど、それができない人間も同様にその価値観にどっぷり使っている人間だとも思う。自分は逆の意味で世俗的な価値観にどっぷり浸かっている人間だとも思うけど、逆に世間的に それがステータスだとも思う価値観ででもそれを出さない感情は持っているつもりだ。

でも、何でそれを出さないのだろう、と思うと、まさにそれが自分の人間としてのスピード感を失わせている原因、疾走感を失わせている原因だとも思うが、他人の思惑を気にしてしまうから。他人の思惑、行為のリターンバック(利益とかではなく)をあるもののように感じてしまうからだ。

先にあげたツイートにはそれがあまり感じられず、それが読んでいて非常にスピード感がある人間だと思った。それは他人の思惑を気にしていないのではなく、自分に自分の価値があると自覚はしてるだろうし、自分が拒絶されるわけはないと知ってるからできることだろが、何と言うのだろうか、自分が自分を自分が思うように出して、仮にどんな反応を受けようがそんなことは気にしてない、ように見えるツイートだったから自分はすがすがしいと感じた。

自動思考(ダメ人間について)

新に自分にとって価値があるもの、自分が価値だとジ信じるものはなんだろうか。今日朝起きてから何もやる気が起きず、自分が やろうとしていることは価値があるんだろうか、自分はまたいろんなことを気にして逃げているんだろうかとか、妄想で自分は過去に出会った人たちがまた自分はダメだった、また自分は結果を出せてなかった、やっぱりダメなままだったとか、自分の妄想で自分を責めた。自分が気にしていることや、内心自分がどう思われているのかとか、自分の気持ちを吐き出したいのに、自分がどう思われているだろうかか、自分のやることなすことに疑問符が次々と浮かんでしまってダメだった。人間は一日何万回も思考するらしく、ネガティぶな人間はそれだけで自分にネガティブな自己嫌悪をかけているようなものでよくないとの記事を読んだことがあり、そのことを思い出す返す度に自分のこの心理状態や思考回路を変えたいと思うんだけど、本当にうまくいかない。考え出すと自分にとり、ネガティブなことばかり考えてしまう。自分のこの心理的な腰の重さは何だろうかと思う。いつもやることなすことに一度躊躇してしまう自分。一体なんだろうか、そもそもこのブログにしても一切は自分の意識の流れるままにぶちまけることをテーマにしているわけで一切推敲も指定いないし、するつもりもないけど、何だか腹が立つことも多くて、自分をもっと出したいとか、本当の気持ちを洗いざらい書いてしまいたいとか、本当の要求に逆らって自分が書いてしまう気配をビンビンに感じてしまって本当にいやだ。過去出会った人達の誰にも教えていないし、教えるつもりもないが、ツイッターに関してだって、人の塩飽を気にして、こんな自分だと思って欲しくてツイッターにするのも本当に自分自身で気持ち悪いと思うし、自分は自分の気持ちをもっと素直にぶつける場所が欲しい。自分のことを知って欲しいとは思わないが、自分の気持ちを全て吐き出すようなメディアが、匿名的なサイトで欲しい。自分だって知られなくてもいいから、自分の気持ちを洗いざらい吐き出す場所が欲しい。本当に自分の気持ちを全て吐き出す場所が。自分は一切自分が本当にしたいこと、本当にやりたいこと、やるべきだと思っていることをしているだろうか。自動筆記は本当に」気持ちがいい。自分の意識の流れが刻々記録させらrれているようで、自分が如何に論理的にものを考えれる人間でないかよくわかる、自分のことをダメ人間だと思いたくないし、そういうことを平気で行ってしまう人間もいるけど、自分にはそれはしたくない。特に、自分一人の時は自分はダメな人間だとか、ダメな人間でないのか。

自分はダメな人間だと思う時があるし、そう思わない時もなる。

人前で自分を卑下して自分なんてダメな人間んですからと卑下してしまう瞬間がある。

自分一人になった時に自分はなんてダメな人間なんだって思う時がある。

自分一人になった時に自分はダメな人間だって思わない時もある。

自分をダメな人間だって思っている連中に対して腹を立てて悔しいと思う時もある。

人をだからお前はダメな人間なんだって責めたい時もある。心から自分をダメな人間だって思っていないのだろうか。

心のどこかでは自分のことをやはりダメな人間だと思っているのだろうか。

自分のことを自分はダメ人間だと本当に思っているのだろうか。

自分のことをダメかもしれないと思うことは大切だと思うけど、

自分のことをダメ人間だという人間は嫌いだ。

 

才能と形式

つくづく自分が何に混乱しているのか、何を把握していているのか、第三者に説明する記事を構成するのは難しい。自分一人だけの手帳だと暗黙の了解で済むことを第三者に記事として読めるようにするのは、純粋にプログラミングとは違う構成能力が必要になる。こんなことに時間をかけてもいいのだろうかという気持ちにさえなる(ならやめろっ!!!!)。面倒臭いことこの上ない。単純な勉強とは使う脳味噌や時間や労力の使い方が違ってくる。純粋なプログラミングの勉強とは違う構成能力が必要になり、自分が表現したいことが自分でも掴めない。知識を知って使えることと、それを記事に纏めていくのは全然違う能力だということを痛感する。そんなことをせずにガンガン勉強すればいいじゃないかとも思うのだけど、一度乗りかかった船なのに、しかも漕ぎ出したのは自分なのに、途中で辞めるとおそらく自分を攻める。この一点においてのみでさえ、自分を攻め続ける材料にしてしてしまう、きっと。ならば漕ぐしかない。記事にしたいと思っているのだけど、どう記事にしていいのかは書いてみるまでは本当に掴めないものだと思う。書き始めて、これではない、こうでもないと、イライラしながらも衝動を保っている時だけが、自分が記事にしようと思った記事を完成させる資格があるのだろう。逆にQiitaの記事を書いている人たちは素直に尊敬する。こんな面倒臭いことをやってくれたのだと素直に尊敬する。このBlogにも何回か書いたことだけど、表現形式を自由に操れなければ、記事の内容とは衝動とは違うところで、また表現できない。それは内容を理解しているとはまた違うことで、形式を使いこなす知識がなければ、その才能もまた生きないのだろう。確かに、表現とは才能の比重が大きい分野なのだろうが、形式と才能は切っても切り離せない、一体化したものなのだろうと強く感じる。形式を知らなければ、表現も出来ない。どう構成していいのか、逆算的に形式を組み立てることさえ出来ない。内容的な構成ではなく、形式的な全体像からくる構成能力も問われるのだろう。しかし、こんなことに時間使っていいのかと逡巡は常にある。しかし、自分はこの作業を続ける度に常に自分に言い聞かす。復習をして、それは記事を書かない分早く、それも早く終わるだろう。技術ももっと増えるだろう。しかし、人に紹介するような記事が一個もない状態でそれで自分は勉強したと言えるのだろうか。それこそ、口だけのような気がしていて、特に最近。どんなにめんど臭いくても、たとえ、非効率的で何かを棒に振ったとしても、そこから自分は逃げることは出来ないのではないかと思う。一度、取り憑かれてしまったのなら仕方ない。遠回りかもしれないが、やるしかないのだろう。

明石家さんまとUIとデザインとプログラミングと才能と技術と千原Jr.

昔、千原Jr.が明石家さんまの番組に出ていて、単語のチョイス、言葉の笑いの話になった時に、発想の笑い出身の千原Jrが(若い時の芸風を見れば、影響を受けている人間から判断すれば)当然、発想の笑いとは才能の話になってくるわけで、才能こそ言葉の笑いを決定付けるとのニュアンスで言葉の笑い、発想の笑い、単語のチョイスの話をしていたように思う。普通では思いつかない考え方や、発想で単語を繋げて笑いにしていく、人とは違う考え方で単語を選択していく。それを可能にさせる根本的な力が才能であるとの論調で話していたように思う、自分もわりかしそうでないかなお観ながら感じたもんだが、そこで明石家さんまが「それは才能ではない。それは技術だろっ」って言った時には、一瞬聞いている自分も一体何を言われたのかよくわからなくてびっくりした覚えがある。いや、その能力は才能が担保するものだろうと思っているし、今でもその考え方は染み付いているし、間違ってはいないと思っている。さんまの芸風、プライド、矜持からすれば、才能発想中心の笑いを認めるわけにはいくかいっとの気概はあるだろうし、何よりも本人は、半ば薄々それは才能だと思っていながらも、「それは技術やろっ」と言った感じもした。その言葉に続けて「考えることなんてみんな同じやんか」って発言もあったように、何かを否定したくての「それは才能ではなく、それは技術だ」っていう発言に繋がったようにも感じた。才能か技術か。どっちとも言えるし、どちらも正確ではないように思うが、プログラミング、デザイン、道具を使って表現、構築する過程の中で、二人のやりとりをしばしば思い出す。初期衝動と、道具に関する知識を考える時にも二人のやりとりを思い出す。何かを表現する、それも言葉でなくて、道具を使って、何かしらの形式を使って何かを表現、構築する際にも二人のやりとりを思い出す。衝動を喚起する際、初期衝動の中のイメージには既知の範囲を超えることはあるだろうかと考える時にも二人の言葉を思い出す。名前を聞いたこともない名前の町には、いく方法さえ思いつけないように、初期衝動も全く存在さえ知らない単語が含まれていることなどない。既存の知識や感覚、欲望の中で組み合わせてしか、初期衝動は形成されない。そのように、ビジョンも、構築したい姿も、イメージしたい形も既知の範囲から出るとは有り得ない。欲望の本質が、それと同じことを自分もしてみたい、のように自分が何も情報を与えられないまま自分の欲望を形づくるのは難しい。それを、デザインやプログラミングあるいは、道具を利用して何かを表現するときに考えてしまう。お笑いは言葉で仕事をするから、道具はあまりいらないから、もちろん技術は必要だろうが、言葉の選択の根幹は才能であるというのも腑に落ちる。しかし、他の職業に置いて、知識や道具の扱い方、書式、Qiitaの記事作成時のMarkdown記法等、才能ももちろん最終的な本質的なクオリティを担保するには必要だろうが、何かを具現化する時、こういう記事が描きたい、構成したいなぞ、才能以前に知らないことが、道具の操りかたを知らないことが大きく、表現の幅を決めてしうことがあるはずだ。むしろ、才能よりそこでも才能を使う前に表現の幅を、構築の幅を、イメージの幅を決めてしまうことがあるはずだ。もちろん、形式より内容だと思うが、内容そのものに形式への理解、形式を操っての表現が含まれるならば、初期衝動とはまた違った知識の幅が、才能や表現の幅をも決定づけてしまうはずだ。自分が書きたいものはこんなものではないと、勉強用のアウトプットを構成しようとするが、その度に、どう書いていいのか分からない(Markdown形式的に)、どう書くことが出来るのかもよく知らないって悩ましい気持ちにさせられ、それはノートにペンと鉛筆だけでアウトプットする時には考えない領域だ、その時には純粋に中身だけ、使うのは言葉のみなのだから考えればいいが、道具を使って何かを表現するとなると、初期衝動の前にそれがいる。それが、デザインやUIのデザインを構築していく時の最初の枷になり、意図するようなものができない苛立ちが 初期衝動をけさすみたいなことはざらにあるはずだ。向いてない、下手以前にそれを知らないし、こんな使い方もあると知らないだけで、それの上手い下手のクオリティの幅にも関係してくることだとしらずに、何かをやめてしまうことがあるはずだ。そして、それはどう構成すればいいのか分からないと言った勉強は、直接本筋の勉強や衝動とは関係ないかもしれないが、最初のイマジネーションの選択の幅にも関係あるはずだ。

 

自分は何をどう勉強するべきだろうか。今は少し迷いの中にいる。

 

何かがあるから、動けるわけではないのかも知れない

 アルバイト初日だったわけだが、身体を動かして脳がハイになっていて一つのことに集中できない。働いている時に何度も何度も思考の線が切れそうになって、自分は随分恵まれた状況で勉強していたと思った。半年コースの人はそんな状況の中で一生懸命勉強しているんだと思った、一日それしか考えなくても良い状況が如何に恵まれているのかわかったし、気持ちの立ち上がり迄含めて随分と時間を贅沢に無駄に使っていたんだと思った。仕事を覚えるっていうのは何だろうか。身体を使って頭で覚えているのはいるんだけど、何かを覚えるっていうのは一体何だろうかと仕事中に何度も思った。身体で覚えるってことと頭を使って覚えることの区別が自分にはいまいち言語化出来ない。結局頭で記憶しているから身体が動いているわけだけど、頭も使って覚えているのは確実なわけで、知識を整理していないけど、それができるっていうのは何だろうか。整理しないと出来ないわけではないんだろうとも思った。自分がいま知識を使って勉強しているだけに余計そんなことを考えた。手を動かして勉強するのは分かるのだが、一度体系化して、Qiitaの記事を作るなりのアウトプットは実際の仕事に関していうと無駄なことなんだろうか。自分がなにぶん把握癖があり、いま、自分がしていることを言語化して、全体像の中のこの位置の中の知識を使っていると把握してないと、ふわふわして知識を使いこなせているわけではない気がして勉強した気に成らない。頭を使っている気にならない。けど、そんな時でも、仕事でメモをとるわけでも、体系化する暇もなく身体で、頭で記憶で身体を動かして仕事をこなすように、プログラミングの勉強も身についているんだろうか。手を動かすことで、思考回路や方法論を蓄積していき、それを使いこなせるようになるんだろうか。 

 

頭を使うことと身体を使って覚えることの違いが本当に掴めない。受験勉強とは違い、プログラミングの勉強は違い、いや、違いはなにのかも知れないが、初見の数学の問題を解く時の脳の使い方には、ほんの少し似ているかも知れない、数学でなくても、他の教科でも問題を解くなどのアウトプット時の脳の使い方は似ているのかも知れない。アウトプットする時は、順序立てて知識を引っ張り出してくるわけではない(復習時やまとめの時は全体像を意識しながら、知識の立ち位置を確認しながら整理しながら知識を引き出せるけど)、アウトプット時は、ランダムにその時に必要とされる知識が違う。知識を脳から出す時に、記憶した形、整理した体系に基づいて知識を引っ張り出してくるわけではない、何か自分では説明できない形で知識が引っ張り出されてく。前後関係を意識しながら参照してくるわけではない。

 

身体で何かを覚えることはインプットだろうか、アウトプットだろうか、同時に出力しているわけだから、でも不思議なのは、インプットしていない、つまり仕事を覚えているわけではないのに、覚え切れているわけではないのに、教えられながら身体を動かしていくのは、アウトプットだろうか。何か行為を出力することを、アウトプットだとするなら、だたの行為もアウトプットになるはずで、そもそも行為がアウトプットなのかよく分からんけど(仕事中に身体を動かすことをアウトプットだと言われた)、間違っている身体の動きもアウトプットだろうか(それならアウトプットには中身はいらんことになる)。

 

脳でインプットする、何かを出力してアウトプットする、それは何となくわかりやすい。でも、身体を使ってインプット、アウトプットするってのは本当に感覚的にどう整理していいのかよく理解できない。覚えたから出来る、覚えたから理解しているか動けるのでなく、動いて覚えていくようになる、何かが出来るから動けるのでなく、つまり、何かがあるから動けるのでなく、動いていく間にこそ蓄積されるものがあるのであれば、準備や蓄積や行為も考え方を変えないといけない。何かがあるから、何かが出来るのでないのかも知れない。何かがあるから、マイクで話せるのではなく、マイクが回ってきたら何かを話せるのかも知れない。

 

マイクが回ってくる迄なにを話そうとか準備したりすることもあるが、経験的にマイクが回ってきた瞬間話し始めた瞬間には何か全然違うことを話している時がある。それとインプット、アウトプットも似ていて、アウトプットし始めた瞬間全然違う知識を引っ張り出してくるってことだろうか。その時に考えたことが本人の考え方で、考えがまとまってないとか、自分の考え方がないっていう発言があるけど、その時に考えたことが自分の考えで、一貫性などないのが当たり前だと思う。自分の考えはその時に考えたことなのか知れない。昔、考えたことと、たまたま今考えたことが一致している時にブレてないのであって、基本的にはその時考えたことが自分の考えたことでいいと思う

 

 

勉強し続けようと思う理由

一度、基礎的な部分は勉強しているが、そこから原理的な知識を身に付けたい。
自分は初学者であるが故に、「こうすればこうなるはず」「こうならこう」といった表面的な理解しか出来ておらず、自分の先入観から外れた事例に出会うと、それが許される文法なのか、成立するコードなのか判断出来ない。
 つまり自分には原理が理解出来ていない。原理を理解するなぞ、気が遠くなるような時間が掛かるかも知れないが、一つ一つ知識を獲得し、その差異を意識し、差異を蓄積していくことでしか、原理を掴めないのではないかと考えている。
 そもそも、プログラミングの原理なんてのは、明確な形など存在せず、差異の許容を許す了解しかないのではないかとも考えたり、そんなところに惹かれて勉強し続けてみようと思っています。

 

 

ダークソウル3

何かをしなければならなくて、やりたい事ややるべき事が山積みで、何から手を付けて良いか判断出来なくて、それは混乱状態とはまた違っていて、脳がハイになっていて興奮状態であり、非常に心地良い状態で、何からも手を付けてもいいしって状態でしばしばこういう状態に陥る。気分が落ち込んでいるときは、却ってこういう状態には陥らない。快楽物資が脳に分泌されている時のみこういう状態に陥る。同時多発的に頭の中に散発的に情報が浮かび上がり、同時に色々考えているんだけど、何か一つその中から情報を撰び取ると、選ばなかった思考を同時に考えられないから、何も考えられない状態に陥るが、脳はハイになって興奮している状態。こういう脳の状態は、素晴らしい箱庭ゲームをやった時にもこういう状態に陥る。最近ではダークソウル3とかそういう状態に陥った。複雑な構造を持つMAP(複雑さは関係ないかもしれない)、Gameの中で何をしようか、どうしようかという潜在的な欲求が同時多発的に浮かび、何をやっても楽しい、興奮するという状態で、何をやっても他が惜しいから、何も選べなくなる状態。何かをするためには、何をしなければいけないのかのタスクへの段取りが、タスク毎に同時多発的に浮かび、選択を決定できない状態。素晴らしいGameをプレイすると時々、こういう状態に陥る。