差異の蓄積と原理

インプットとアウトプットに関して。自分は今までの人生を振り返ってインプット重視型の人間で、アウトプットを殆ど行ったことがない。ていうか、そもそもアウトプットっていうのは何だろう...作品を作ることか、小説でも脚本でも、Designでも、仕事で何かを構築することでも、Blogか、Twitterでも、何でも構わないけれど、何かを発信することだろうか。最近、よく聞く。そもそもこれはアウトプットだろうか。そんなことはどうでもいいし、発信するとか吐き気がする。自分は自分の感情の発露の為だけに行うし、勉強関連の記事だって全て自分の為に行う。BlogもQiitaの記事も、全て自分の為に行う。誰もみていなくても、誰かに見せるためのものでもなく、誰かにみてもらう為に記事を整える為に技術を蓄積出来るなら(Qiita/BlogのUI)それを使いこなせるようになるならその為にやる。インプットとアウトプットの知識の脳からの引っ張り出し方には確かに勉強を始めてから思うところがあって、入力と出力では脳の知識の引き出し方が違うなと何度も感じたことがあって、入力に置いて一度構築した知識の全体像が通用しないと感じることが何度もあり、新鮮だったし、この知識の引き出し方は、自分がサボって来た脳味噌の部分かとも考えた。

いくら、知識をインプットしても、アウトプットする時は全然違う脳味噌を使わないといけないことを何度も実感してその度興奮した。知識を知識として整理する全体像ではなく、出力するときには、出力用の全体像がある様に感じた。実作に置ける全体像というものを感じた。アウトプットでしか鍛えられない部分があると感度も感じた。今迄、自分は本を殆ど読まないという物作りの人にもあったことがあって、それでもアウトプットが多い人間もいて、自分は全くの無力、生産性のない人間であったが、アウトプットでしか鍛えられない筋肉があったとしても、それでも実作の筋肉とは違う、実作のクオリティの精度はインプットに基づくものだと信じたいのが自分の心情でもある。

アウトプットできなければ身に付いたとは言えないともいうのも分かる。それでも、そのアウトプットの前後で誰にも知られないところで体系化させている上での知識は好きだが、散らばっているけど実作は出来るという、ある種ダイナミックな知性には憧れはするが、自分はそんな性分になれるだろう。それに関しては、常に行為が脳より一歩はみ出している感じで好きなんだけども、自分はどうも把握癖や準備癖が思考回路に染み付いて、そんな自分をなかなか変えられない。一度思い切って、一切体系化を後に行い、とにかく行為を優先させようとしたことがあったが、自分を把握していないと、脳がちぐはぐして落ち着かず、何事も身に入らなかった。

今迄、勉強したことの総復習をやろうと思ったいるけど、少し始めたけど、何だが自分で市販の本を買い、それに基づき、カリキュラムを照らし合わせながら知識の総ざらいを行いたいと思っているけど、現に昨日から少しづつ始めた。が何だが勿体無い様な気がして来て、どうせならアウトプットしてみようかという気にもなった。そこでアウトプットしようとしてQiitaの記事を買いたのだが、Qittaの記事を書く為のQiitaの技術を調べながら記事を書くことが以外に時間が取られ続けると思うと、ペースが落ちて復習の進度が止まる様でいやだ。自分だけで復習することと、アウトプットしながら復習することの脳の違いはどこにあるのだろうかとも考えたりして、余計な本筋以外の時間を取られたりして心理的に大分焦った、自分だけで整理し、構築する過程とは違い、その前提となる序章的な段階も必要だと思うとそこも面倒だなと感じた、でも、これが力になるということだろうか。遅々としてしか進まない感じがいやだ。

自分が作りたい記事を作ればいい。自分が読みたいと思う様な記事を書けばいい。アウトプット前提に知識に触れると確かにインプットのみ前提での脳みそとは違う部分を使いながらインプットするかもしれないと思った。でも、人間はアウトする為に生きているわけではないってのが信条でもあるので、そういうのは少し敬遠していたが、確かに違う組み立てを行うことで違う部分で、知識を体系化出来るかもしれないと思った。

 

今日の復習では、細かな原理を知ろうとした。AだからBでがやがて卓越への道を辿れるとは思えず、原理的に理解することに務めた。知識を知ることは、自分の頭の中の既存の知識の差異を認識し、知識を増やすことでもあり、その度に体系化立て、今までの知識の位置付けを若干調整し直したり、配置替えを行う行為だから非常に時間がかかるが、差異を認識することで、差異を蓄積していくことでしか、原理は正体を表さない。差異を蓄積することで、知識の固定観念から自由になれる。知識の形を変えて、自由自在に知識に形を変えて生きたい。その為の復習であって、盲目的にこうするからこうなるではなく、原理をしるこで自由な実装が出来る、これでも成立すると原理的に理解できる知識にして生きたい。

 

 

 

人生

◯書きたいことと書く技術に関して。

技術というのは、文体とか単語とか、言いたいことを書くためにそれを正確に表現する技術のことでもなくて、単純にある形式に則ったh表現記法のこと。Qiitaで言う所の、マークダウン記法然り、このBlogで言う所の、文字の大きさを変える方法や、書くときのフォントの大きさを変えるなど行った、形式的な表現方法のこと。本当に書きたい事(それをフォントの大きさやデザインも含めた表現方法)を書く為に、その前に自在に操れないというのが、インターネットを通じて何かを、道具を用いて何かを表現させることの枷になっているような気がする。何かを書きたい、何かを表現したいと思う人間にとり、全てを、表現する全てを自分の支配下におき、自在に管理、把握しておきたいというのは、根源的な欲求であると思うし、それに関しては自分もまたそうなのだが、その前に、技術を、形式的技術を把握出来ず、自在にコントロール出来ないことからくる苛立ちが、インターネットの上に言葉を綴る障害になっている様な気がしてならない。機会を操る迄に時間がかかる、表現する迄に時間が掛かる。それまでの間に初期初期衝動が消えてしまうので、書こうとすればする程、もどかしい思いで、自在に操れないことへの苛立ちと憧れ、綯交ぜになったまま、脳だけは興奮して、結局何も書けず、何も構築出来ず、結局そのまま、誰に見られることのないアウトプットに終始する。例えば、自分が勉強した内容、過程、日々の感情を手帳や、B6(京大式ノート方眼桝)に記録はするが、それは誰かに見られることはない。

 

ある形式に則った表現を試みる度に、いつも感じることだが、また、新しいUIに出会う度、いつも感じることだが、そのサービス、UIにおいて、何が出来るのか把握したくなる。それは、過去の同様のサービスの経験を引きづり、(つまり、どのGAMEにもSAVE機能がある様に、このGAMEでSAVE機能を実行するにはどうすればいいのだろうかと行った様な)既知の行為から発する行為への欲求の発露を、新しいUIにおいても行おうとすることで(また新しいUIに置いても形は変われど既存の機能をはみ出す余程革新的な考え方を要求される機能行為は存在しない)、自身がこのサービスUIに置いて、どんなことが出来るのか把握しようとすることで、UIの全体像を把握し、自分が行っていることの全体像を把握し、現在の自分の行為の立ち位置を把握しようとする。

 

自分が、WEBの構築物に惹かれていたのは、その機能を把握する過程で脳が興奮させられたからで、機能を把握して何とかその機能を自在に操ってみたいと思い把握しようとする瞬間に流れる脳の興奮状態が好きだったからだ。

だから、プログラミングを始めとして、やがてはインフラエンジニアが扱うような技術を自在に操ってみたい。だが、しかし、それは知的好奇心からくる自分の欲求の発露であり、自分の本来ありたい姿からの欲求の発露ではない。やはり自分には何か違うところに自分の本当の意識の流れがあるわけで、それはエンジニアリングへの卓越とはまた違ったところに自分の希求しているす姿がある。自分は本来、どうすべきなのか、自分は本来、どう生きるべきなのかの答えに、エンジニアリングへの卓越はない。やがて超絶したエンジニアリングの知識を身につける予定だが、時間は掛かるだろうし(別に焦ってもいない)、ただ趣味程度にお金が山ほど稼げればいいだけの話で、本来の自分の魂からくる根源的な欲求の発露や、頭脳の興奮はそこにはないと考えている。